明産株式会社

HOME > スタッフブログ > YSコラム

スタッフブログ

冬の上高地

 山の好きな人間にとって冬の上高地はちょっとした憧れになっている。カレンダーや絵葉書で良く見かける雪に覆われた穂高連峰をぜひ自分の目で見たいという思いからだ。

 上高地は通年マイカー規制されていて、沢渡(さわんど)からはバスやタクシーで入らなければならないし、そもそも冬は上高地への入口である釜トンネルが諸車通行止めだ。しかも松本から高山に抜ける国道158号線もかつては沢渡で冬季通行止になった。このため冬に上高地に入るには沢渡から歩き始めなければならなかった。
 ところが1997年に安房(あぼう)トンネルが開通して158号線の冬季通行止めが解かれた。相変わらず釜トンネルからは歩かなくてはならないが沢渡からの長い国道歩きはなくなった。ここ10年で冬の上高地がかなり近くなったのだ。トレースがしっかり付いていれば河童橋までの日帰りも充分可能になった。

 私は昨冬に上高地で年越しをしようと考えて大晦日から上高地に入った。しかし3日間雪がやまず、穂高はずっと姿を現さなかった。そこで今冬は作戦を変え、天気予報を見ながら入山日を決定することにした。今冬は山陰や東北地方で豪雪となったが長野県はそれほどでもなく、しかも1月2日~3日は冬型気圧配置が緩んで上高地も好天が期待された。そこで2日早朝に出発した。

 予想通り2日は歩くに従って徐々に青空が拡がってきた。が、天候の回復はゆっくりで2500mから上の雲が取りきれず、河童橋からの穂高の眺めは今ひとつだった。しかし翌3日は未明から快晴に恵まれた。大正池の左岸には黎明の穂高連峰をカメラに納めようとするアマチュアカメラマンの三脚が林立した。梓川の川面には薄っすらもやが掛かり、また氷点下10数度の寒さでできた霧氷のおかげで木々は桜の花が満開になったようだ。
 やがて日が昇り、東を向いた西穂高岳から奥穂高岳への稜線と右端の明神五峰が赤く染まってきた。時折もやが晴れた水面には穂高の峰々が逆さに写り、正に絵葉書と同じ光景が展開した。あちこちで静かな歓声が上がり、殆どの人が今ここにいることの幸運を味わった。

 日が昇りきると段取りを心得たカメラマンたちは次の撮影場所である田代湿原や河童橋方面に向かって行った。我々は朝食後帰路についたが歩きながら何度も振り返って上高地のこのみごとな風景を頭の中のメモリーに記憶した。Y.S.kappabashi.jpg

河童橋と焼岳(やけだけ)

hotaka2.jpg

大正池からの穂高連峰

jyuhyoh.jpg

満開の桜のような霧氷

hotaka3.jpg

大正池堰堤付近から穂高連峰

今年の夏山

 今年の夏はかなりの暑さだったがその分良い天気が続き、7月、8月、9月と毎月山に登ることができた。

 7月は八ヶ岳にコマクサとウルップソウを見に登った。梅雨明けと同時に行者小屋から入って阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳と回り、赤岳鉱泉経由で下山した。目当てのコマクサもウルップソウも今が盛りと咲いていた。花も良かったが、どの小屋もトイレがきれいになっていて驚いた。特に硫黄岳山荘のトイレは洋式水洗で洗浄器付きだった。気軽に山に登れるようになるのは大歓迎だ。fuji.jpg

 赤岳と左遠くに富士山

komakusa.jpg

 コマクサ(駒草)

uruppu.jpg

 ウルップソウ(ウルップ草)

 8月は蝶ヶ岳から常念岳を歩いた。目的はもちろん槍と穂高の展望だ。やや高曇りだったが期待通りの景色を堪能した。北アルプスの入門コースとも言えるこのルートは中高年やファミリーを多く集めている。が、今回若い登山者も多く見かけた。彼ら彼女らには次回は向こう側の槍や穂高にぜひ登ってほしい。

tenba.jpg

 蝶ヶ岳ヒュッテとテント場。山は常念岳

yariho.jpg

 左手に槍穂高を眺めながら蝶ヶ岳の稜線を行く

panorama2.jpg

 常念岳山頂でのパノラマ

 9月は南アルプスの赤石岳から荒川三山を縦走した。赤石岳は南アルプスの本来の名称である赤石山脈の元であり、人気が高い。ここ赤石岳や聖岳など南アルプス南部の山々はかつて素泊まり小屋だけだったので重い荷が背負える登山者しか入れなかった。しかし今はどの山小屋も整備され、シーズン中は食事・寝具付きで泊まれるようになった。そのおかげで小さなザックだけの中高年が楽しそうに登っている。これもとても喜ばしいことだ。

arakawa3mt.jpg

 中央に荒川前岳及び中岳、右に悪沢岳(荒川東岳)

akaishi.jpg

 赤石岳を望む。右下は荒川小屋

 日本の山は本場のヨーロッパアルプスやヒマラヤなどと比べるとスケールが小さいし急峻さも少ない。だから登山と言うよりも「山旅」と言った方が雰囲気が伝わる。今年の夏山も正に山旅だった。
 山を旅して歩く、その途中には豊かな水と森林があり、稜線に出れば花が咲き、すがすがしい空気ときれいな景色がある。山を旅と捉えれば日本の山にはヨーロッパアルプスやヒマラヤに劣らない魅力があると改めて感じた夏山だった。Y.S.

好天の五竜岳

 今年のGWは連日素晴らしい好天が続き、楽しく山に登ってきた。今年は仲間のリクエストで後立山連峰の五竜岳となった。雪も多く、岩と雪のコントラストがみごとな日本離れした景色が拡がっていた。
 入山は白馬五竜スキー場からだった。ここからゴンドラとリフトを乗り継いで遠見尾根を進む。スキー場もまだ営業していて歩き出しの第一歩からすでに雪の道だ。初日は大遠見山にテントを張り、そこをベースとした。
 2日目に五竜岳を往復した。朝テントを出発し、白岳の南側面を経由して後立山連峰の主稜線に出る。五竜山荘が営業していたのでビールやコーラを仕入れた。小屋の物資はヘリコプターで運搬しているので買えるのは当たり前だが、雪深い道を登って来た直後なのでなにか不思議な気分だ。
 五竜山荘から山頂までは急な雪壁が断続的に続く。スリップして上手く止められなければ相当下まで落ちてしまう。ピッケルとアイゼンを有効に使って慎重に登る。
 山頂は、大きな雪庇のその先だった。目の前に黒部川を挟んで剱岳が凛々しい。そして五竜の南側にある鹿島槍ヶ岳の双耳峰が美しい。
 雪山初心者が二人いたので山頂からの下りは所々で念のためにザイルを使った。ザイルを使うと時間が掛かる上に他の登山者にも迷惑が掛かる。しかし安全第一だ。案の定、二人とも「安心して下れた」と言っていた。若い頃なら「この程度の傾斜でザイルなんか出すものか」と粋がっていただろうから私もずいぶんと大人になった(?)ものだ。

 ところで最近のデジカメは動画撮影機能が充実している。私は数年前からデジカメで動画も撮りながら山に登っている。荷物が限られる山では写真と動画撮影を兼用できるのは大きな利点だ。そして今回の登山に合わせてフルハイビジョン動画(垂直画素数1080)が撮れるデジカメを新調した。
 歩きながら写真や動画を撮る訳だが今回は3日間で写真300枚、動画30分を撮った。帰宅後、動画をフルハイビジョンのテレビに写して見たところ、実に鮮明な映像が撮れていた。それまで使っていたハイビジョンながら垂直画素720本のデジカメ動画に比べるとベールが1枚取れた感じだ。
 昔、山の雰囲気をみんなに伝えたくてベータマックスのビデオカメラを背負って登ったことがあるがそれを考えると実に良い時代になったものだと思う。Y.S.

 at_ohtohmi.jpg
五竜岳を背にBCにて(2010年5月3日撮影、以下同じ)

to_sumit.jpg
五竜岳山頂への最後の登り

panorama.jpg
五竜岳山頂でのパノラマ写真(左に鹿島槍ヶ岳、右に立山と剱岳)

down.jpg
ザイルを使っての下山

traverse.jpg
白岳側面をトラバースしてBCに戻る

区報

 私は、住んでいる自治会の区報発行責任者に昨年4月から選ばれてしまった。任期は2年だ。毎月発行しているので合計24回発行することになる。先日ようやく折り返し点である12回目を発行した。

 当自治会は20年ほど前に、当時の役員が発案して区報発行が決まり、以来毎月欠かさず発行が続いている。内容は特に決まりはないが自治会内の毎月の行事報告(祭典、文化祭、スポーツ大会、一斉清掃など)と次月の予定が主になり、他に個人の投稿もある。A4換算で12頁ほどの規模だ。以前はモノクロ印刷だったが3年前にカラープリンタを購入してそれで印刷することになった。だから行事がある時はデジカメを持って取材に赴く。

 この区報には私も頼まれて過去に何回か投稿したことがあった。しかし今は一読者としての気楽な立場とはまったく異なる。皆さんに読んでもらえる紙面作りをしなければならない。
 私が最も恐れるのは手抜きを見透かされて区報が読まれなくなることだ。もちろん区報のどこにも「手抜きしました」と書いてあるわけではない。しかし読者は手抜きに何となく気付くものだ。手抜きの最たるものは他からの転用だろう。つまりページを埋めるためにどこかで仕入れた記事をそのまま貼り付けることだ。過去の例では「おばあちゃんの知恵袋」とか「今日の料理」それから「ハイキングコース紹介」などがあった。どこかで見たことのある、しかし誰も実行しないような生活の知恵や、本当に作って食べたかどうか疑わしい料理記事、実際に歩いたかどうか分からないコース案内などは読む側も虚しい。
 こういった埋め草的な記事を載せると読者は敏感に反応する。そしてせっかく書いた他のオリジナル記事も次第に読まなくなる。こんな500部にも満たないコミュニティ冊子でもそこに載っている記事がオリジナルなものであることは極めて重要だ。

 区報の制作は元々労多くして功少ない無償の行為である。毎月の後半は帰宅後これの編集に費やし、月末の休日は印刷と綴じ込みで丸一日潰れる。かなりの犠牲的精神の持ち主か、さもなくば余程のお人好しでなければ引き受けないだろう(私は後者か?)。だから手抜きして読んでもらえなくなった区報にしてしまうと次に引き受けてくれる人は皆無となってしまう。しかし多くの人に読んでもらえる良い紙面にしておけば「次は私がやります」という奇特な御仁が現れるかも知れない。手抜きをしないことが後継者問題も発生しないであろうこと願って残り12回の紙面を作っていきたい。まだまだゴールは遠い。Y.S.

 吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を先日読んだ。この本は中学生か高校生が読む本とのことだが、ひょっとしたきっかけで今回初めて読んでみた。この本が書かれたのは何と1937(昭和12)年のことだ。書中には普通の中流家庭にも女中がいたり、火の付いたタバコを平気で投げ捨てる場面があったりなど、今なら書かないであろう個所も散在するがそれでも内容的には素晴らしい本だと思う。

 ストーリーはコペル君という中学生の周りで起こる出来事をコペル君本人とコペル君の叔父さんとが話したりノートに書いたりすることで進行していく。いくつかのエピソードに分かれているが、まずはコペルニクスの話が出てくる(コペル君というあだ名の由来がここで分かる)。
 コペルニクスが地動説を唱えるまで人は皆自分が宇宙の中心であり、天が動いていると思っていた。コペル君の叔父さんはこの天動説と地動説を利用して「人は子供の頃は自分を基準にしなければ周りの位置関係が理解できない。しかし長ずるに従って外から自分を見ることができるようになる。残念ながら大人になっても自分中心の人がいることも事実だが」と指摘してみせる。続いてコペル君が「世の中は世界中の人々が仕事をすることによってお互いに支え合っている」ということに気付き、叔父さんはコペル君の深い思考に喜ぶ。

 コペル君がナポレオンの能力や意志の強さに感心するくだりでは叔父さんが「ナポレオンは確かに非凡なすごい人物だった。しかし彼の成し遂げたことが歴史の上でどれほどの意義があったのかも考慮しなくてはならない」と釘を刺している。この部分は、軍国主義に傾きつつあった当時の情勢と筆者の反戦の思いも汲み取らなくてはならないだろうが、それとしても叔父さんの口を借りて「能力だけ優れていても意味がない。後世にどれだけの価値を残したか(もちろん金銭ではないだろう)が重要である」と言わしめたのは卓見だと思う。
 またある日、上級生から理不尽な暴力を振るわれる仲間に対してコペル君は何もできなかった。誰にも似たような経験があるだろう。コペル君も「僕なんか死んでしまった方がいいんだ」と自責の念に駆られる。この場面ではコペル君の母親が「自分の正しい心に反してその通りに行動できなかったことを後悔だけに終わらせず、反省してその後の人生に活かしなさい」と言い、叔父さんが「からだに故障があれば痛みを感ずる。心が痛むのも心が正常でないからだ。この苦しい思いから新たな自信を汲み出していこう」と書く。正に心洗われる思いだ。

 この本は多くの人が若い頃読んだそうだ。残念ながら私は筆者がこの本を書いた時よりもさらに歳を取ってからこの本に出会うことになった。だがそれでも未熟な私には充分参考になった。実に良い本だと思う。ビジネス書や事件物ばかり読んでカサカサになった心を潤してくれるような本だ。Y.S.

Douikiru.jpg

スキー上達の秘訣

 一昨年のことだが、会社の先輩であるCさんと一緒にスキーに行った。場所はCさんのホームゲレンデ、八方尾根だ。私はここには2回目だったが何せ広いスキー場なのでうっかりすると自分がどこにいるか分からなくなってしまう。特に2日目は相当な濃霧で、前を滑るCさんの後にぴったり付いて滑って行かないとリフト乗り場に辿り着けないような状況だった。
 Cさんは私よりスキーが上手である。当然私は教えを乞うことになった。Cさんの指摘は的確だった。特に「突いた後のストック先端をもっと上に持ち上げないとダメ」の一言は、目からウロコものだった。

 スキーは真っ直ぐ滑り降りるだけならまったくの初心者でも簡単にできる。しかしスキーにはターンが不可欠だ。ターンによって方向を変えるのはもちろんのこと、連続してターンすることによって滑り降りるスピードを制御する。
 ターンは安全に滑り降りるための手段ではあるが、ターン中のあの浮遊感と板を制御している軽い緊張感がスキーの楽しさをもたらしている。ターンすること自体が目的にもなっているのだ。
 そのターンだが上手くターンできるようになるにはかなり困難な壁を乗り越えなくてはならない。スキーは上体、つまり腰から上の先行動作で曲がって行く。したがって上体は常に前に前にという意識を持っていなければならない。それが結果的に板を引っ張って行くことになる(スキーにはいろいろなイメージの仕方があり、これは一例である)。
 上体の先行動作に合わせて両手も前に前に出して行くことになる。そこで私はいつも「ストックは突いたらグリップを前に、突いたら前に」ということと「ストックのグリップがいつも視野内にあること」を心がけてきた。これは過去に上級者から教わった秘訣だ。
 しかしCさんは「まだ不十分だ。なぜかな?」と言う。そして次の1本でそれを見事に指摘した。それが「ストック先端の下がり」だった。私は確かに常に両手を前に出すようにはしていたがストックの先端にまでは意識が行っていなかった。そのためストックがだら下がり、積極的に板に乗り込んでいる滑りになっていなかったようだ。

 スキーは斜面に対していつも突っ込んで行く意識を持たないと安定した滑りにならない。ちょっとでも油断するといわゆる後傾姿勢になって板の制御が効かなくなる。そうすると雪面の変化や他人の接近に対してとっさに反応できなくなり、危険だ。ストックの先端をしっかり持ち上げてもっと雪面から離すこと、たかがそれだけのことが上達への一つの秘訣だった。奥が深い。Y.S.

ski.jpg

写真は昨年、妙高杉ノ原でのCさん

DECの記憶

 先日、家の本棚を整理していて古い本を見つけた。「超エクセレントカンパニーDEC」という名の本だ。私の知り合いでDEC日本支社に勤務していた者から貰った本だ。DEC(Digital Equipment Corporation)は、今ではコンピュータの歴史書にしか登場しないような過去の会社となってしまった。しかし当時はIBMに次ぐ世界第2位のコンピュータメーカーであり、この本のタイトルのように超エクセレントカンパニーと言われて持てはやされた会社だった。保険会社かどこか忘れたが「女性から見た結婚したい男性が勤務する会社アンケート」にDECが1番で選ばれたことがあった。その理由としてDECは、時代の花形であり、給与も高く、アメリカ勤務や出張もあり、外資系にもかかわらず終身雇用や傷病補償など従業員を大事にする、といった理想的な会社であることが記してあったようだ。当時のDEC従業員は正に我が世の春を謳歌したことだろう。

 しかしそうしている内にPCの性能が驚くような速さで向上した。DECの得意とするミニ・コンピュータの領域にまでPCが進出してきたのだ。DECも急いでPCを生産し始めたが「時すでに遅し」。ダウンサイジングとUnixの波に乗れなかったことがDEC衰退の原因だったようだ。
 アメリカの本社では創業者のケン・オルセン氏が退き、経営者が交代した。しかし新しい経営者は会社を再建することよりもブランド・イメージの良い内に会社を切り売りすることに専念した。その結果DECはコンパックに売却された。そしてコンパックもやがてヒューレット・パッカードに吸収された。「毎週のように送別会があったよ」と私の知り合いは当時のことを話す。超エクセレントカンパニーと呼ばれていたことが嘘のようだ。

 同じような話は最近でもあった。経営危機が騒がれていた日本航空が今年に入って遂に会社更生法を申請したという事実だ。日本航空もかつては就職人気の上位を常に占めていた。これも今では嘘のような話だ。
 DECも日本航空も、さらにはいつしか表舞台から去った多くの有名企業もその凋落の原因はそれぞれに異なるだろう。日本航空のようにとても一言では言えないたくさんの事情を抱えた会社もある。それぞれの企業に属していた方々にとっては一従業員の力では如何ともし難く、その無念さが想像できる。

 多くの人が言う通り、やはり「会社は生き物」なのだろう。その時代の環境変化に上手に順応して行かないと生き延びることはできない。そのためには将棋や囲碁の達人のように先を読む能力を高めて行くことが必要であり、また周りの変化を自社にフィードバックして軌道修正していく柔軟性も必要であろう。我々は何という難しい時代に生きていることだろうか。Y.S.

DEC.jpg

栄光の岩壁

 作家新田次郎は山岳小説を最も得意とした。今年上映されて話題になった「剱岳点の記」も新田次郎作品だ。
 短編、長編共に数ある新田次郎作品の中でも特に傑作は「孤高の人」と「栄光の岩壁」だろう。「孤高の人」は戦前の単独行登山家加藤文太郎氏を描いている。そして「栄光の岩壁」は戦後の名クライマー芳野満彦氏をモデルとしている。
 芳野満彦氏は1948年の冬、八ヶ岳で遭難して足に凍傷に負った。幸い生きて救助されたが、麓の病院で両足の指を全部切断するという大きな代償を被ってしまった。氏が17才の時だ。それでも氏はその後、指先のない足で冬の岩壁に挑み、国内の著名なルートの積雪期初登攀をいくつも達成した。1965年にはマッターホルン北壁の日本人初登攀を成し遂げている。「栄光の岩壁」にはそこまでの氏の半生が描かれている。
 氏は単に登山家であるだけでなく詩や絵画も得意であり、1959年に刊行した自らの著書「山靴の音」にもそれらの詩や絵を掲載している。
 私は山の仲間と語らって芳野満彦氏に会いに行くことにした。私たちが若い頃夢中になって読んだ「栄光の岩壁」のモデルとなった山の大先輩を訪ね、親しくお話を伺おうというプランだ。
 私たちは事前にアポを取り、茨城県水戸市にお住まいの芳野満彦氏を訪ねた。文字通り直立不動の姿勢で恐る恐る訪ねた我々を氏は暖かく迎えてくれた。戦後登山界の生き字引のような氏の口からは著名な登山家の名前がポンポン出てきた。登山家として大きなハンディを負うことになった八ヶ岳遭難の話も興味深く伺った。私は話を聞きながら氏の持つ常に前向きな姿勢に感銘を受けた。問わず語りの氏の話しぶりは何かを否定的に言うことがないのだ。「何々の登山は良かった」とか「何々は良い道具だった」という具合に常に良い面を取り上げようとするのだ。「常人でも困難なことを、ハンディを負った体で成し遂げた源泉はこれほどの前向きさであったか」と理解した次第だ。
 我々は持参した「栄光の岩壁」や「山靴の音」などに氏の署名をお願いした。氏は一冊一冊丁寧に筆を運び、署名だけでなく短い文や山の絵を即興で記してくれた。これらの本は我々の一生の宝物となった。Y.S.

Mr_Yoshino.jpg

芳野満彦氏近影(2009年12月撮影)

黒部川・下ノ廊下

 9月のいわゆるシルバーウィークは念願の黒部川・下ノ廊下(しものろうか)に行ってきた。

 下ノ廊下とは黒部ダムから下流のV字状峡谷のことで、ルートは左岸の岩壁に等高線に沿って穿たれた狭い道である。黒部ダムからスタートして黒部峡谷鉄道(いわゆるトロッコ列車)の終点である欅平(けやきだいら)まで約30㎞、前夜発1泊2日の行程だ。ちなみに黒部ダムから上流を当然ながら上ノ廊下と呼ぶ。ここには道はなく、泳ぎやへつりの完全な沢登りの世界らしい。

 私は35年前に山仲間から「下ノ廊下に行ってきた」という話を聞き「いつかは行きたいものだ」と思っていた。しかしそれを果たせないままズルズルと歳を重ねてしまった。今回も出発数日前まで踏ん切りが付かなかったが台風も東に逸れて好天が期待できたので計画を立てて行ってきた。

 せっかくの連休なので室堂から入って立山連峰を浄土山~雄山~大汝山~真砂岳と登り、内蔵助谷に降りて下ノ廊下に繋げるという前夜発2泊3日の日程にした。結果的にはこの欲張った計画のせいで疲労困憊してしまったが天気にも恵まれて何とか計画通り歩き、山を満喫してきた。

 下ノ廊下の岩壁に付けられたこのルートを正しくは旧日電歩道という。これは戦前あった日本電力という電力会社がこの道を開いたことに由来する。現在の黒部ダムまでの歩道ができたのが1929(昭和4)年とのことだ。戦後の電力会社再編で旧日本電力(当時は日本発送電)は解散してそのエリアを関西電力が引き継ぎ、今日に至っている。さらにさかのぼれば日本電力は東洋アルミナムというアルミ精錬会社を吸収している。この東洋アルミナムが黒部川に自前の水力発電所を建設するために鉄道を敷き、その終点から歩道を作っていったのが発端らしい。欅平から仙人ダムまでの東洋アルミナムが作った道を水平歩道と呼び、それを引き継いで黒部ダムまで延長したのを旧日電歩道と呼ぶのが正式とのことだ。P1000890.jpg

 ところでその旧日電歩道・水平歩道を歩いた感想であるが、「延々と続く」の一言に尽きる。写真で見ると断崖絶壁の狭い道に「足がすくむのでないか?」と思われがちだが、さすがにここに来ようという登山者はこの程度の高度感や狭さには慣れている。どなたもすいすいと歩いていた。それよりもその距離の長さに驚ろかされる。「よくぞこれだけ長い道を切り開いた」と感じ入る。P1000931.jpg

 そして下ノ廊下最大の名所である「十字峡」を過ぎ、しばらくして現れる黒部第四発電所の送電線引き込み口に唖然とする。後立山連峰の地下深くに黒部第四発電所があり、黒部ダムからそこに地下パイプで水が送られていることは事前に知ってはいても実際にその一部分を目にすると「やっぱり本当だったんだ!」と驚嘆する。そして今歩いているこの細い、所によっては丸木3本の桟道がそれらのダムや発電所建設の事前調査のための道であったことを再認識させられる。正に頭をガーンと殴られるような衝撃を受け、これを成し遂げた人間の意志の強さに驚かされる。電力開発は戦前の軍需による国策でもあったにせよ「本当に人間はこれだけのことを計画し、実行に移すのだろうか?」と、正に人生観が変わる思いがした。P1000968.jpg

 帰宅後、ネットで検索したら東洋アルミナムを設立したのは消化酵素タカジアスターゼの発明で有名な化学者高峰譲吉氏であったことも知り、さらに驚いた。「世の中にはすごい人たちがいるもんだ」といつものように思った次第だ。Y.S.okuganeyama.jpg

P1010001.JPG

 さていよいよ特性インピーダンスについて記すことにする。特性インピーダンスと言うとすぐに思い起こすのは同軸ケーブルの特性インピーダンスが50Ωや75Ωであることやツイストペア線のそれが100Ω前後であることだ。しかしテスターでどこをどう測っても50Ωや100Ωになったりはしない。また特性インピーダンスは長さが1mだろうが100mだろうが50Ωは50Ωのままである。特性インピーダンスとはいったい何者なのだろうか?

 特性インピーダンスも理解しやすい他の物で説明した方が良い。そこでアッテネータ(減衰器)の理屈を理解することから始める。アッテネータを図や数式を使わずに何とか説明しようと考えたがさすがに無理がある。そこでまずは図1を見て頂きたい。これは75Ω系の供給側と負荷側のインピーダンスマッチングが取れている状態を表している。供給側はインピーダンス0Ωの信号源とその信号源の内部インピーダンスとに分けて考えることができる。
 ここに図2のようなT字型のアッテネータを1個挿入する。アッテネータはインピーダンスマッチングを崩すことなく信号を減衰させる物だ。具体的には例えば図3のような抵抗値になる。これは6dBのアッテネータである。図3では供給側から右側を見た時に75Ωに見えることを確認されたい(100Ωの並列に25Ωが直列なので75Ω)。同様に負荷側から供給側を見ても75Ωである。ついでにこのアッテネータではV1の電圧がV2では1/2(つまり6dBダウン)となることも確認しておきたい。
 ではこのアッテネータを2個、3個と数珠繋ぎしたらどうなるだろうか?もちろんアッテネータだから信号は減衰し、受電側の電圧が1/2から1/4になり1/8と減衰していく。しかしちょっと考えれば分かるように供給側から見たインピーダンスはこのアッテネータが何個繋がろうと75Ωのままである(図4)。このアッテネータを「75Ω系のアッテネータ」と呼ぶ。しかしこのアッテネータ単体をテスターで測っても75Ωになっている所はない。

 同軸ケーブルもアッテネータと同じように考えれば分かりやすい。図5は同軸ケーブルの微少区間を単純化したものだ。これは先ほどのアッテネータ1個分と同じ形だ。図5での抵抗は、直列分は導体の持っている僅かな抵抗であり極めて小さい。また並列分は絶縁体の漏れに由来する抵抗であって極めて大きい。したがって理想的な同軸ケーブルがあったとすれば図6のように書ける。このL分とC分が常に均一になるように注意深く作られた同軸ケーブルはアッテネータの例と同じように何段重ねても(つまり何メートルでも)インピーダンスマッチングすることが理解できる。
 同軸ケーブルを物理的に何かで押さえて潰してならないのは、潰れた個所でC分が変化して特性インピーダンスが変化してしまうからだ。また同軸系ではケーブルだけではなく、コネクタまでインピーダンスマッチングを図っていることにも注目したい。せっかく正確な同軸構造や均一な絶縁体材質で同軸ケーブル作っても、そこを通って来た信号がコネクタでミスマッチして反射波を出すのは具合が悪い。SMA、BNC、N、Fなどのコネクタがインピーダンスマッチングを図った物だ。これらのコネクタはコネクタメーカの指示通り正確に組み立てないと本来の特性インピーダンスにならないので注意が必要だ。

 ところで同軸ケーブルもツイストペア線もなぜ50Ω、75Ω、100Ωなどの特性インピーダンス値なのだろうか?それはひと言で言えば単に「そうなるから」だ。
 同軸ケーブルの場合は絶縁体(つまり誘電体)の材質によってC分が変化する。絶縁体として空気を使った同軸ケーブルを作り、そのケーブルの損失が最も少ない構造にした時に75Ωの終端抵抗で最も良くマッチングしたことから75Ω系ができたらしい。また絶縁体にポリエチレンを使うと50Ωで最も良くマッチングするので50Ωを特性インピーダンスとして物もある。テレビ系は75Ω、無線系は50Ωを使うようになっている。
 ツイストペア線の場合も平行2線をよじった時に100Ω近辺で終端するのが最も良くマッチングするのだ。ちなみに電話系が600Ωなのは昔電信柱に渡した平行2線の特性インピーダンスが600Ωだったからだそうだ。正に「そうなるから」決めた数値だ。

 こうして見てくるとまず最初に伝送路(つまり同軸ケーブルやツイストペア線)の特性インピーダンスがあり、それに合わせるように供給側と受電側のインピーダンス値を決めたことが分かる。供給側、受電側そして伝送路、この3者のインピーダンスマッチングを図ることによってロスを最小にし、なおかつ伝送波形の乱れを最小にすることができる。電気の現象に理論付けをしてそれを実際に役立たせようとする先人達の知恵に驚かされる次第だ。

 なおRS485のようにレシーバを2個以上接続できるインタフェースは、レシーバの入力インピーダンスが高くできている。したがってドライバから見た場合レシーバは大きな負荷にはならず、ドライバから出た電流の殆どが終端抵抗で消費される。終端抵抗はツイストペア線の特性インピーダンスに合わせて100から120Ωにする。こうすることによって伝送ラインのインピーダンスマッチングが図られ、波形の歪みが極力抑えられる。そのラインに高い入力インピーダンスのレシーバが繋がることによってマルチドロップが可能となっている。Y.S.

Crct_Imp2.jpg

富士登山

 今年の夏は久しぶりに富士山に登ってきた。地元に住んでいるとアプローチが簡単なので思い立った時に行けるのがうれしい。

 ルートは須走口にした。初日は正午過ぎに登り始めて八合目の小屋に泊まった。最近富士山は人気の山ということで満員に近い混雑ぶりだ。二日目は日の出と同時に歩き出して山頂に達し、お鉢巡りをして同じ須走口へ下った。
 山頂の日本最高所である剣ヶ峰は記念撮影の順番待ちが発生していた。山頂のシンボルだったレーダードームは既に撤去されたし、その直下の測候所も2004年に自動化されて無人となった。人がそこに住んでいないと思うと何だか廃墟のように見えて物悲しい。
 須走口は登山道と下山道が完全に分離されているのですれ違いの気遣いがいらない。また下山道の七合目から五合目間は砂走りの斜面がある。須走口の砂走りは御殿場口のそれと比べると距離は短いがそれなりに楽しい。

 富士山は山そのものは大きく変わっていないが受入側に変化を感じた。登山道の整備が進み、道の両側は道迷いや裸地登行による自然破壊を防止する目的でほぼ切れ目なくロープが張られている。随所に設置された標識は日本語の他に英語、中国語、ハングル語で書かれている。また長年の課題であった山小屋のトイレがどこもきれいになった。世界自然遺産登録の候補地になれなかった原因の一つであった垂れ流しをやめ、タンク式の水洗になった。ついでに便器も洋式になってかなり快適になった。さらに寝返りができないほどの泊まり客の受け入れをやめて予約を重視するようになった。小屋の従業員もかつてのように「泊まらせてやる」という雰囲気が少なくなり、客を大事にするようになったと感じられた。

 富士山はここ2,3年で若い女性が増えたそうだ。今回確かにそう感じた。若い男女のグループや若い女性だけのグループをあちこちで見かけた。若い人たちが富士山をきっかけにあちこちの山に登り始めるのは大歓迎だ。しかしそうは言っても未だに富士登山は観光という雰囲気が強い。「ご来光」とか「お鉢巡り」といったキーワードだけは知っているが大した下調べもなしで来るので他に何を見るべきかを知らない。特に富士山が信仰の山として発展してきた歴史を知らないと山頂周辺にある鳥居も神社も興味が湧かず、登頂の歓びも半減すると思える。
 またどう考えても徹夜で登るのは疑問大いにありだ。疲れ、眠気、寒さ、人によっては高度障害がいっぺんに襲ってくる。徹夜で登って来た子供が親の背中で泣きわめいていたり、20代の若者が山頂周辺でぐったりして寝転がっているのは見るに忍びない。

 これはかなり前からそうだったが、登って来る車に対して上の駐車スペースがあまりに少ない。あぶれた車が仕方なく路肩に駐車している。道路は駐車禁止ではないので法的には問題がないし、片側だけに駐車するよう誘導係員を配置して交通整理しているくらいだ。その駐車の列がずっと下まで続いていて最後尾はおそらく実質3合目辺りから登ることになるだろう。また路肩駐車のせいでバスがすれ違えなくて渋滞を起こしている。週末やお盆時期はマイカー規制をしているがもう限界だろう。
 かつての上高地がそうだったようにマイカーは無規制から期間規制を経てやがて全面通行禁止になるだろう。でもその方がお互いに良いと思う。なぜならバス代やタクシー代が余計に掛かり、乗り換えの手間が増えるがために本当に来たい人だけが来るようになるからだ。「そこまで来たからついでに五合目まで行ってみよう」という人は激減するだろう。マイカーは下で乗り捨てるので当然渋滞は発生しない。結果的に時間もロスしないし無駄な車道歩きも発生しない。良いことずくめだと思うがどうだろうか?

 「富士山に1度も登らぬバカ、2度登るバカ」と言われて久しい。これは富士山が何度も登るほど良い山ではないことを言っている。山肌は殺伐としているし登りも下りも単調だ。独立峰ゆえに周りの山が遠くなってしまって景色は期待はずれだ。それに加えて山小屋の混雑と冷遇が「良い山」の印象を与えない。受入側の「どうせ一見(いちげん)の客」という意識が見えていた。
 しかしここに来て前述の通り受入側の変化によって急速に「良い山」になりつつある。地元に暮らす者としては、富士山が標高日本一という売りだけでなく登山対象としても評価に耐え得る山になり、2度も3度も登りたくなる山になって欲しいと願っている。Y.S.

Mt_Fuji.jpg

 八合五勺付近から見た山頂方面(2009年8月24日撮影)

 以前このブログでインピーダンスについて書いたのでついでにインピーダンスマッチングについても記してみる。と言うよりも、先に実施した社内勉強会でのインピーダンスの話はインピーダンスマッチングの必要性について説明するための前段の話であった。我々のようにデータ伝送を多用している者にとってインピーダンスマッチングは興味深いテーマである。

 インピーダンスマッチングとは信号の送り側と受け側のインピーダンスを同じにすることである。インピーダンスをマッチングさせる目的は2つある。1つ目はパワーロスを最小にするためである。
 これについては電気よりも音の方が実感しやすいので音響インピーダンスで説明する。我々が水の中に潜ると、水中に音源のある音は良く聞こえるのにそれまで聞こえていた空気中の音がとても小さくなることを体験する。これは空気中の音響インピーダンスと水中の音響インピーダンスが極端に異なることが原因だ。インピーダンスがマッチングしていないので空気中の音は水面で殆ど反射されて水の中に入ってこないのだ。つまりパワーが有効に伝わらないのだ。
 電気もこれと同じように送り側と受け側のインピーダンスが合っていないと反射が生じてパワーがロスしてしまう。例えば今なお根強い人気のオーディオ用真空管アンプでは真空管の高い出力インピーダンス(数kΩ)と、スピーカの低い入力インピーダンス(数Ω)とを合わせるために間にトランスをはさむ。トランスの1次側巻き線は真空管のインピーダンスに合わせるために巻き数が多く、2次側はスピーカに合わせるために少ない。トランスを介することによってインピーダンスマッチングが行われ、真空管のパワーは大きなロスを生ずることなくスピーカに伝わる訳である。もし真空管とスピーカを直接繋ぐとすれば完全なミスマッチングとなり、水中で空気中の音を聞く時のように極めて小さな音しか鳴らないであろう。
 蛇足ながらこのトランスの存在が良くも悪くも真空管アンプの音に大きな影響を与えているようだ。「それがまた魅力だ」と言う向きもあるがそれはここでは議論しない。

 インピーダンスマッチングの2つ目の目的は正確な波形伝送にある。何度も書くが送受のインピーダンスが合っていないと反射が生じる。それがパワーロスだけでなく、送られてくる信号の波形を変形させてしまうことにもなる。
 電気信号は導線中を光とほぼ同じ速さで伝わる。つまり1秒間に30万㎞の速さだ。オーディオ帯域の最高周波数は2万Hz(こんな高い音が聞こえる人は少ないが)である。この時の導線中の1波長は30万を2万で割った15㎞である。一般家庭で使うオーディオケーブルならばせいぜい数mであろうから15㎞に比べて遙かに短い。これならば例え反射が起きても信号波形に与える影響は無視できるほど小さい。一般向けオーディオ装置がインピーダンスマッチングを無視している(つまり低インピーダンス出し、高インピーダンス受け)のはこの理由による。ちなみに長い距離を引き回す可能性のある業務用装置はオーディオ帯域でもインピーダンスマッチングを図っている。

 低い周波数ではあまり問題にならないインピーダンスマッチングであるが、周波数が高くなる(つまり波長が短くなる)と事情は違ってくる。例えば地デジ放送電波のUHF帯である500MHzを考えると1波長は60㎝とぐっと短くなる。こうなるとインピーダンスマッチングができていない場合は数mの伝送でも反射の影響が現れてくる。つまり反射波が入射波に影響して信号波形を歪ませるのである。こうなると正確な信号伝送は期待できない。
 地デジ放送は搬送波である電波にデジタル信号を乗せる変調という処理をしているが、変調を行わず直接デジタル信号を伝送するSCSI、CANバス、イーサネット、HDMIなど高い伝送レート(つまり高い周波数)の信号でも同じことが言える。正確な波形伝送を必要とする高ビットレートのデータ伝送には伝送波形の歪みを避けるためにインピーダンスマッチングが欠かせない。バスの終端に、指定された数値の抵抗器を取り付けるのはこのためである。この抵抗器の値が受け側のインピーダンス値である。この抵抗器に送り側からの電気信号を流し込み、その抵抗器でパワーをロスなく消費させる。それによって反射の発生を抑えて波形の乱れを防ぐのである。

 高い周波数そして長い距離を送る場合には送り側のインピーダンスと受け側のインピーダンスを同じにすることが重要であることが分かった。その間を繋ぐ伝送路のインピーダンスを特性インピーダンスと称し、これもマッチングを図らなければならないがその話はまた次回。Y.S.

責任ある仕事

 以前酒の席で当時部下だったA君が「責任ある仕事がしたい」と殊勝なことを言った。「責任ある仕事」、若手にとってこれはとても魅力的な言葉である。しかしA君はその意味を良く知らずに言ったようだ。
 辞書を引けば分かるように「責任」とは「自分のしたことの結果について責めを負うこと」である。たった二文字だがこの言葉の意味するところは極めて重い。昔の武士ならば「腹を切って詫びる」ことだ。

 映画「武士の一分」の冒頭で小林稔侍扮する樋口作之助が主君に食中毒を起こさせるような献立を知らずに立てた咎で切腹するシーンがある。家族は次室でただ念仏を唱えて無事に切腹が終わるのを待つ他ない。そうしなければ家を守れなかったのだろう。実際には木村拓哉扮する毒味役の三村新之丞が毒に当たって発覚し、殿様は間一髪難を逃れる訳だがそれでも樋口作之助は責任を取らされる。

 現代はもちろん切腹までは行かないが仕事で大きなミスを冒すと最悪は退職という形で責任を明らかにする。下手をすると刑事責任にまで発展することさえある。「仕事に責任を持つ」というのはかように過酷なことであり、覚悟が必要なことである。とても軽々しく「責任ある仕事をしたい」などと言えるたぐいのものではない。

 A君には「そんなに急ぐな。その内にいやでもその『責任ある仕事』とやらをするようになるから」と諭しておいた。我々は仕事を重ねて行けばたとえ望まなくても自然と仕事に責任を持たざるを得なくなる。そして「責任」と言う言葉の重みを知るに至って、軽々しく「責任」などとは言わなくなる。そもそも「責任」という言葉を口から発するのは良い場面ではない。
 その後A君は他の会社に移ってしまったので久しく会っていない。が、次の会社でももう中堅であろうから望み通り「責任ある仕事」を任されていることだろう。しかしできるだけ「責任」と言う言葉を聞くことなくスムーズに仕事をこなして行ってもらいたいと祈っている。Y.S.

歳を取らない人たち

 もう何年も前の夏のことだが、裏銀座縦走路を歩いて槍ヶ岳に登り、午後の山頂でのんびりしていたことがある。すると大きなザックを背負ったクライマーがバリエーションルートである北鎌尾根から這い上がって来た。見れば私よりも歳の多い人たちだ。ザイルを解いて登攀具を片付けている彼らに訊いたら四人とも60才代と言う。さらに彼らに続いて登って来た別パーティの二人組は共に65才とのことだった。当時40代後半だった私は「何と意欲的な人たちだ!自分が60才を迎えた時にこの人たちと同じようにしているだろうか?」と大いに衝撃を受けたものだった。

 先日「嫌老時代」という本を読んだ。タイトルからは「老人を嫌う時代」ということを連想しそうだがそうではなく「老いることを嫌う時代に入った」ことを述べた本だった。何歳になっても現役でいたい北鎌尾根をよじ登ってきたあの人たちのことだと思った。さらにこの本に記してあることが今や当たり前になっていることを実感した。それは寺倉忠宏さんという往年の名クライマーと知り合ったことによる。寺倉さんは満74才であるが奥さんと一緒に今でも岩登りをしている。鎌倉に住んでいて、伊豆にある有名なクライミングゲレンデである城山南壁にも何度も訪れている。「城山の殆どのルートを登りました。もちろん三日月ハングや鎌形ハングもフリーで乗っ越しますよ」とのこと。何ともすごい話である。寺倉さんのことを紹介している山岳雑誌の記事に氏の談として「60代中頃までは若い者にも負けない体力が維持できた。70代に入ったらさすがに衰えを感じる」と出ている。70才になってようやく衰えを感じたとはそれもすごいことである。

 さらにその後、NHKテレビで八ヶ岳山麓に住んでいる俳優の滝田栄さんを紹介していた。その番組の最後の方で滝田さんの家に集まる近所の仲間を紹介していた。有名な登山家である井上進さんなども登場した。そして井上さんらのリードで滝田さんが八ヶ岳の小同心クラックを登攀した映像が出た。この話も面白かったのでネットで井上さんを検索したらさらに驚いた。それは80才を過ぎたこれも有名な登山家である羽田英治さんがその時に滝田さんらと一緒に小同心クラックを登攀していたということである。小同心クラックは岩登りルートとしては短い部類だし、無雪期であるのでそれほど困難でもないが80才を過ぎてもなお岩登りに向かわせる意欲には敬服の他ない。

 仕事に関してもまた遊びに関しても歳を取らない人たちが急激に増えた。世はまさに嫌老時代に入ったと言わざるを得ない状況だ。「生涯現役」という言葉も「そうありたい」という単なる憧れでなく、極当たり前のことになってきた。私たちも何も考えずに歳を取ってしまうと、何もできない、何もしない老後を迎えることになり、気付いた時には嫌老時代の真っただ中で一人時代遅れな老人ということになってしまうかも知れない。Y.S.

 先日、4月から5月にかけて電気の勉強会を開催した。これは新入社員教育のついでに機械やソフトなど電気以外の設計者に対して電気の基礎を理解してもらおうというものだった。定時後の2時間、全5回に渡って私が講師となって実施した。
 機械設計者もソフト作成者も日常的に電気を扱っているので理解は早かったがインピーダンスの説明は手間取ってしまった。そもそもインピーダンスに該当する日本語がないのが理解を妨げている原因でもあるようだ。レジスタンス(Resistance)は抵抗、キャパシタンス(Capacitance)は容量というように漢字で書くと実感しやすい。ところがインピーダンスは適当な和訳がされないまま今日に至っている。
 インピーダンスとは交流回路における電流の流れ難さの量であり、直流回路での抵抗と同じような概念である。単位も直流回路と同じくオーム[Ω]が使われる。しかしインピーダンスが抵抗と異なるのは周波数によってその値が変化する点にある。コイルでは周波数に比例して電流が流れにくくなり、コンデンサでは反比例する。それだけなら話は簡単なのだが流れる電流の位相が変化する点が話を難しくしている。つまりコイルを通すと電流の位相が電圧に対して90度遅れ、コンデンサでは90度進むのである。コイル、コンデンサさらに抵抗器が組み合わされると位相角はそれらのベクトル合成となり、どんどん複雑になる。
 これらのことを「インピーダンス」という言葉で表現している。適当な日本語訳が見つからないのも納得できる。そしてインピーダンスを数式で書く時には複素数を使う。横軸を実数、縦軸を虚数(-1の平方根)で表した座標だ。電気という目に見えないものを虚数というこの世にない数字で扱おうというのだから話がさらに分からなくなる。電気を志した学生がこの辺りでつまずいてしまうのも無理がない。私もそうだった。
 「誰が電気の世界に複素数なんていう訳の分からないものを持ち込んだんだろう?」と先達を恨むことしばしである。しかしじっくりこれに付き合うと「何と素晴らしい発想だろうか!」ということに気付く。1回掛けると位相が90度遅れ、2回掛けると位相が反転するということをjという一文字で表現しているのである(数学での虚数はiであるが電気では電流記号のIと区別するためにjと記す)。
 交流回路では複素数領域に一旦入り込んで演算を行い、注意深く実軸と虚軸に分離する。そして最後には三平方の定理と三角関数を使い、Ωを単位とするインピーダンスの絶対値と位相角という現実世界に戻って来るのである。
 インピーダンスはこの世の数字だ。それを虚数というこの世に存在しない数字を含んでいる複素数で扱うのは単にそれが便利な道具だからだ。何という柔軟な発想であろうか!電気理論の先達を恨むなんてとんだお門違いである。「水を飲む時には井戸を掘った人に感謝せよ」と言う。この辺りの思想もみんなに伝わっていれば幸いだ。Y.S.

連休の西穂高岳

 このGWは西穂高岳に登ってきた。10年ほど前に安房トンネルができたので岐阜県側から入山するのがとても楽になった。そこで新穂高ロープウェイを利用して西穂山荘から西穂高岳をピストンしようという計画だ。
 行ったのは連休の半ばだったので天気の崩れが心配されたが運良く高曇り程度で済んでくれた。この時期の穂高は雪と岩のコントラストが素晴らしく、アルペン的な景色にうっとりする。しかし稜線は細く、小さなアップダウンの繰り返しが続き、いい加減な気持ちで歩くと滑落に繋がる。もちろんピッケルやアイゼンは必携だ。また西穂直下の雪壁は初心者にとってはザイルでの確保が必要だと感じた。
 西穂高岳山頂は四畳半ほどの広さしかなく、カメラを構えるのに冷や冷やした。展望は素晴らしく、目の前に奥穂・前穂が迫り、遠く槍ヶ岳、向かい側には笠ヶ岳が聳えている。また眼下には上高地が見え、河童橋周辺の賑やかさが想像できる。
 山頂からの帰りに山頂と西穂独標の中間辺りで休憩していたら初老の単独男性が「私でも西穂に行けますか?」と尋ねてきた。訊けばストック1本だけであり、ピッケルもアイゼンも持っていないと言う。足元を見れば靴もハイキング用の布製でこれではアイゼンがあってもしっかり固定できないであろうと思われた。こういう場合には返事に苦労する。しかし「この先は落ちれば助からないような個所がいくつかあります。ピッケル・アイゼンがないならばここで引き返した方が賢明ですよ」とアドバイスした。他の仲間も同意見だった。
 この男性はちょっと先まで行って「やはり怖いのでやめときます」と引き返してきた。我々も安心したが、もし我々が「ああ大丈夫ですよ。西穂山頂まで行けますよ」などと無責任に言っていたらどうしただろうか。急な稜線ではお互いに慎重な言動が要求されると感じた。Y.S.

nishiho.jpg

西穂山頂から見た笠ヶ岳(2009年5月4日撮影)

F氏の人生訓

 かつて一緒に仕事をした小さな会社の社長F氏は実に楽しい人だった。40才代で大企業をスピンアウトして今の会社を興した人だ。剛直な氏の話すことは、酒が入ろうとそうでなかろうと常に技術者や企業人としての人生訓だった。しかもその一つ一つが示唆に富み、いつも聞き手だった私は「なるほど・・・」と感心することしきりだった。メモしておいた内容を以下にいくつか記してみる。

1.爪楊枝1本にも最適な長さや尖り具合などシステム工学が盛り込まれている(つまり「もっと大掛かりな我々の設計する装置に魂がこもっていなくてどうする」ということだろうか)
2.仕事は人と出会うための道具だ。人と出会うために仕事をしていると思え。儲けは後から付いてくる
3.右肩上がりの成長が望めないなら先を広げろ
4.社員の中で課長以上の仕事をしている社員を課長にしろ。課長の中で部長以上の仕事をしている課長を部長にしろ
5.社内の点数で人を評価するな。社外の点数を重んじろ
6.石垣は三角、四角、など角張った大小の石で積み上がっている。みんな丸くて同じ大きさでは積み上がらない
7.天守閣だけでは城は落ちる。外堀などがなければ守れない
8.大きく飛べる鳥を小さなかごで飼うな。大きく仕上げたい盆栽を小さいうちから形を整えようとするな

 いかがだろうか。常にビジネス書を読んでいたF氏なのでその言葉全てが氏のオリジナルではないだろうが実に味わい深い人生訓、処世訓だ。
 その後F氏と一緒に仕事をする機会がなくなってしまったので久しく会っていないが、今度一度出かけて行って一杯飲みながら続きを聞きたいものだ。もちろん私など今でもひよ子扱いだろうが・・・Y.S.

うまい話は危険

 L&Gという会社のN会長が逮捕された。この人はその昔、APOジャパンという日本最初のマルチ商法会社を作った人らしい。私も学生時代にこの組織に勧誘され、危うく入会しそうになったのを覚えている。

 それは確か1973年か4年頃だったと思う。近所の幼なじみに連れられて、とある会場に行った。F市内の何か公共の建物だった記憶がある。そこには100人ほどの人たちが集まっていた。その会場でマークⅡベーパーインジェクターという車の燃費を良くする装置の説明を受けた。説明員は「マークⅡは単なる名称です」と言っていたが当時人気の高かった車の名前を使っている辺りは最初から怪しさを感じさせた。
 その装置はアメリカ製で、アメリカの車雑誌ではその燃費向上効果が絶賛されているとのことだった。「この装置は非常に良い物なのでバンバン売れる。会員になれば卸値で流すので家族や知人に売れば利益が出る。ついては入会金として6万円を支払ってほしい。そうすればこの装置を3個渡す。1個は自分で使い、残り2個を売ればその時点で元が取れる。そして他の会員を勧誘すれば紹介料としてボーナスも出るし、勧誘すればするほど昇格して卸値がどんどん安くなり、じゃんじゃん儲かる」という説明だったと思う。
 説明が終わった後、10人程度のグループに分かれてさらに説明をすると言う。私たちはその会社で借りているという近くのアパートの一室に移動した。そこで8ミリ映画を観た。内容は先日行われたという有名ホテルでのパーティの模様だった。そのパーティに当時の私と同年代の人たちが高級外車で乗りつけ、賑やかに飲んだり喰ったりしている光景が映っていた。それを観た後、幹部らしき人から「皆さんもこんな夢のような暮らしができるのです」という話があった。

 私は極めて素朴な疑問を抱いてその幹部に質問をした。記憶をたどると次のようなものだった。
Q1;そのような優れた省エネ装置を自動車会社に売り込まないのはなぜか?
A1;自動車メーカに売ってしまえば開発者だけが儲かってそれで終わりだ。この開発者は世界中の若者にも利益を配分したいと考えてこのような販売方法にしたのだ。
Q2;燃費が良くなる原理が分からない。そもそも容器に入れるというその液体は何だ?
A2;これは水を主原料にした特殊な液体だ。これを容器の中で水素と酸素に分離し、霧状にしてガソリンに混合する。水素がガソリンの燃焼を助けて燃費が良くなる。水素が燃えても水になるだけだから排ガスも汚れない(真偽の程はともかく、彼はそのように説明した)。
Q3;えーッ!ちょっと待ってくれ。私は工学系(電気)の学生だ。水を水素と酸素に分離するには相当なエネルギーが必要なことくらい知っている。そんなことをしたらむしろエネルギーを浪費することにならないか?おかしな原理では納得できない。
A3;私も工学系出身だ。水を分解するのは少しのエネルギーで済むということを君が知らないだけだ。学校で教わらなかったのか。電気では教わらないかも知れないな。
Q4;そんなバカな!
A4;いずれにせよ燃費が良くなるというのはアメリカの雑誌で立証されている。

 私は釈然としなかったが彼との話はそれで終わった。その場には他にうら若き女性が二人いて、彼女たちはすぐに「私たち入会します」と言い出した。そして申込書に早速記入していた(後から考えると彼女たちは若い男をこの会に誘い込むための"サクラ"だったのかも知れない)。

 当時の6万円は今では20万円程度の価値になるだろうか。私はアルバイトで得た金がその程度あったので心が動いたが一晩考えて入会するのはやめにした。その理由だが第一に燃費が良くなると言うその原理がまったく納得行かないものだったことだ。さらに何とかと言う液体を定期的に補充していくという方式が引っかかった。そんな面倒なことを人は果たしてするだろうか。自分でも納得しない物を携帯電話もインターネットもないそんな時代に知人だけを頼りに何個も売りさばくことはとうていできないと思った。
 そして最も納得できなかったのが高額な車を買ったり派手なパーティをすることを夢とする考え方だった。「そうじゃない。もっと価値のあることは他にある」ということは二十歳前の私にも分かった。

 当時はマルチ商法なんて言葉はまだなかったが次第に社会問題化し、物をエンドユーザーに売ることよりも会員を増やすことを重視したこの仕組みがいつかは破綻することが理論的にもまた現実にも明らかになった。結局この会社はその後、高校生会員が自殺するという事件もあり、25万人の被害者を出して解散した。私を説明会に誘った同級生は金銭的にはそれほど大きな被害を被ることはなかったようだがあちこちの知り合いと気まずい関係になったであろうことは容易に想像できる。幸い私は何の被害も被らず、また彼の勧誘を断ったことで逆に彼との関係も壊さずに済んだ。

 マルチ商法はその後も手を変え品を変えして綿々と続いているようだ。うまい話には良く良く気をつけないといけない。経済的な損失もさることながら人間関係の損失はもっと大きな被害を生む。Y.S.

 もう10年以上前の話になるが私は5年間、息子と一緒にピアノ塾に通った。息子と同じ先生に30分ずつ教わり、息子のレッスン中に私は読書で過ごし、私の時に息子は宿題をこなしていた。
 私はショパンの曲を弾くのが夢だった。念願かなってノクターン9-2や練習曲10-3(いわゆる「別れの曲」)など数曲が弾けるようになった。原曲にこだわった私はやさしく編曲した版など初めから眼中になく、何ヶ月も掛けて原曲に挑戦した。毎日1時間は弾いていた。中学生以上が参加する発表会に恥ずかしげもなく出たりもした。
 全身の神経を集中させて両手の指全てを制御するのは極めて難しい作業であり、元々運動神経が鈍い私は1曲をマスターするのに恐らく他の人の10倍以上の時間が掛かったと思う。今ではすっかり弾かなくなってしまったので指使いが頭の記憶回路から消え去り、曲の頭しか弾けなくなってしまったのが残念だが・・・
 私は自分でピアノを弾き始めて気付いたのだがショパンを始めモーツァルトもベートーベンもさらに古くはバッハも含めて現代まで名前が残っている作曲家は全て「新しいことを始めた人」だったということだ。当時も多くの作曲家がいたが先人の真似をした曲作りをした人の名前は我々一般人には知られていない。映画「アマデウス」に登場するサリエリがその典型だろう。
 音楽の理論が確立した今では専門家ならばショパン風のピアノ曲もベートーベン風の交響曲も簡単に作曲できるそうだ。しかし仮に誰かがそうやってショパン風の新しい曲を作曲したとしてもその人の名が後世に伝えられることはない。いつの時代も新しいことを始めた最初の人しか名前が残らないのだ。
 我々は歴史に名を残そうなどという大それたことを考えて日々仕事をしている訳ではない。しかも名前が残るかどうかは後生の決めることだ。でも我々技術者には他の人よりも少しだけそのチャンスが多いことも知っておくべきだろう。Y.S.

 今年の元旦は地元の愛鷹山(あしたかやま、1188m)山頂で迎えた。この山頂には愛鷹明神奥宮がある。小さな祠と拝殿、それに鳥居と石段があるだけの素朴な神社だ。しかし最短でも2時間半の登りを要する山頂にこれがあることが驚きだ。
 麓には代々この神社の神職を勤めている一家がある。現在の当主は30代目とのことで遠く平安時代から続く家柄だそうだ。
 元旦には当主が神主の装束を背負って登山道を登って来る。今年も午前10時に元旦祭が行われた。私は今年が始めての参加だったが毎年参加する常連もいて、10数名での神事となった。
 町中にある大きな神社に初詣に行くのも良いがこんな山中の小さな神社で神主から直接お祓いを受けるのも霊験あらたかで良いなと思った。Y.S. shrine.jpg

人生を長くする法則

 地元新聞の夕刊に興味深いコラムが載っていた。フルート奏者の一文だが「物事に集中すると時間は短く、ぼんやりしていると時間は長く感じる。しからば人生を長く生きるには何もしない方がいいのか?」という自分への問いかけだった。
 なるほどこれは面白い話だと思って読み進めるとこの筆者は「ある法則を編み出した」と続けている。それは過ぎ去った時間の法則というもので「集中して短く感じた時間は後になって長く感じ、ぼんやりして長く感じていた時間は後になって短く感じる」というものだった。
 私は思わず「うーん!」と唸ってしまった。これは実に素晴らしい発想だと思った。すでにいつかの時代に誰かがこれと同じことを言っていたかも知れないがこの一文は私には新鮮だった。そして人生を長くする秘訣を一瞬にして会得した気がした。仕事も遊びも集中してやることが大事だと改めて思った。
 「溜め息は命を削る鉋(かんな)かな」という川柳があるそうだ。これは「くよくよせず常に前向きに生きよ」という戒めである。今後はさらに「ぼんやりしていると人生がどんどん短くなる」と思って生きたいものだ。と言いながらぼんやりするのが好きな自分がいるのも事実だ。Y.S.

涸沢の紅葉

 「涸沢(からさわ)の紅葉をもう一度見たい」こう思って既に30年が経ってしまった。穂高そのものもかなりご無沙汰だ。そこで「今年こそは!」と思い、仲間を募って10月の3連休に行って来た。
 日頃の行いが良いせいか、初日の朝こそ多少の雨に遭ったもののその後は好天が続き、素晴らしい登山ができた。上高地から8時間、穂高の懐、涸沢は今も変わらぬ別天地だった。ここの紅葉はかつては北穂高岳や奥穂高岳登山のついでに愛でる程度だった。しかし「涸沢のナナカマドの紅葉はすごい」ということが広く知れ渡ったためか今では稜線まで登らずに紅葉を見るためだけにここに来る人もいるほどだ。
 我々は2日目は荷を軽くして北穂高岳から奥穂高岳に廻り、穂高の稜線を楽しんだ。硬い岩の感触が心地よい。展望も素晴らしく、北は白馬岳や剣岳、南は富士山を始め南アルプスや八ヶ岳が全山見渡せた。眼下の涸沢カールには色とりどりの紅葉に囲まれてこれもカラフルなテントが無数に散らばって見える。我々山好きにとっては正に至福の時だ。
 若い頃には思いもしなかったが今回は「次はいつここに来られるだろうか?」と下山時にちょっとしんみりした。しかし「もっと歳を取ったら時間を掛けて登ればまた来れるさ」と言う先輩同行者の言葉に安心もした。Y.S.

hotaka.jpg   涸沢上部から見た前穂高岳(2008年10月12日撮影)

別の見方

 先日何気なくテレビを見ていたら一代で巨万の富を稼ぎ出した大富豪たちのことをおもしろおかしく伝える番組が流れていた。その中の一人でイギリスかフランスか忘れたが酒の量販店で大金持ちになった男の様子を伝えていた。60才のこの独身男性は美女を侍らせるのが道楽とのことで画面にも数人のうら若き女性がイチャイチャと彼にくっついているのが写っていた。彼の豪遊ぶりを伝えるのに彼女らへのプレゼントの買い物やその後のカジノでの博打などを写した後、この男に「一晩で1億円使ったかなあ」という台詞を言わせていた。
 1億円が本当か嘘かは知らないが「何と言うことだ!」と私はつぶやいた。単純に考えれば「自分で稼ぎ出した金なんだからいいじゃないか」と思えるかも知れない。でもこういうのを見ると私は「この男一人のせいで何軒の酒屋が潰れたのだろう?」とつい裏読みしてしまう。彼の登場で周辺の酒屋との客の奪い合いがあったはずだ。その結果彼が一人勝ちし、周辺の多くの酒屋が閉店したのは容易に想像できる。
 自分の才覚で金儲けするのはいいだろう。しかし一晩で1億円も散財できるようなとんでもない大儲けが適切かどうかは大いに疑問だ。彼のために一家離散した元酒屋がいるならそちら側から見た番組も作って同じ日に続けて放送したらどうだったろう。恐らく彼に対する見方は大きく変わっただろう。
 物事を一面だけで見てはいけないと思った次第である。それにしてもうらやましい人生ではある。Y.S.

2番目はかわいそう

 山頂から遠くの山域を眺めて「あれは何とか岳、それは何とか山」と山名を言い当てるのを山座同定という。これはかなりベテランにならないと難しく、また不思議なことに向こうに見える山に自分が登ったことがないとすらすらと言い当てることができない。


 しかし富士/山はその姿が独特であり、またその高さが他を抜きんでているがゆえに誰でも「あっ、富士山だ」と指差できる。また富士山が日本一標高の高い山であることは多くの人が知っている。


ところが日本で2番目に高い山は?となると知っている人の数がいきなり少なくなる。正解は南アルプス(赤石山脈)の北岳であり、標高は3193m(かつては3192mだったが再測量で高くなった)だ。山頂は山梨県南アルプス市に属している。


世界第2の高峰も知らない人が多い。カラコルム山系のK2(8611m)だ。ちなみにKはカラコルムのKであり、2は整理番号だ。


このようにナンバー2に対して極端に関心が低くなるのはなぜだろうか?しかもこれは山に限らず他のことでも言えるようだ。スポーツでもそうだ。ゴルフのプロのトーナメントでは優勝者と2位との差が1打差とか、あるいは同打数でホールアウトしてプレイオフで決着なんてこともある。1位と2位の差は極わずかだ。


夏の高校野球大会も準優勝校は予選を含めてずっと負けなしで来て、最後の1試合を負けてしまっただけだ。


プロゴルフの場合は2位でもそれなりの賞金がもらえるし、甲子園の2位だってとてもすごいことだ。しかしどちらも1位と2位との差は格段に大きいような印象を受ける。2位だからと言って簡単に忘れ去られてしまうのは実にかわいそうだ。


ちなみに2番目の山、北岳は岩・雪・花が豊富な素晴らしい山で登山対象としては富士山よりも遙かに優れている。Y.S.

Mt_Kita.jpgのサムネール画像

池山吊尾根から見た北岳(2008年7月21日撮影)

何が幸せか

 3年ほど前の晩春にスイスを一人で旅した。素晴らしい景色だったことは言うまでもないがその時感じたことを一つ書いてみたい。


 インターラーケンから電車に乗り、日本人にも良く知られた観光地グリンデルワルトへ向かう線路の途中にルッチェンタールという駅がある。グリンデルワルトの手前3つ目の駅だ。ここに訪ねたい場所があったのでこの駅に降りた。そして驚いてしまった。


 田舎の駅なので無人駅だ。駅の売店もない。だが驚くのはそれだけではなかった。駅前に商店が一軒もないのだ。小さなレストランが一軒あったがたったそれだけで、それ以外は民家しかないのだ。駅前がそうだから当然村の中にもコンビニも商店も一軒もない。またスイスには自動販売機といった便利だけど無粋な物は初めからないのでちょっと喉が渇いたからと言ってもどうしようもない。


 でもこの村は寂れている訳ではない。家々は大きくてきれいだし、子供たちも牧草地を走り回っていた。ただ単に物を売っている所がないのだ。何かを購入するということができないのだ。


 この村を歩いて思ったのは「ここに生まれたら幸せか?」ということだった。確かに景色は抜群にいいし、水も空気も旨い。夏は花に囲まれ、冬は一面の銀世界だ。線路と車道を離れて村の道を歩けば牛の鳴き声しか聞こえないような静かな世界が拡がっている。一旅行者の目で見れば理想郷のような所だ。しかしここで暮らすとなったら相当な不便さを覚悟しなければならないだろう。買い物は電車か車で下の町インターラーケンまで出なければならないし、コンサートやスポーツ観戦など文化的な活動を欲すればさらに不自由だろう。


 私たちは便利な都会に暮せば牧歌的な田舎に憧れるし、またその逆のことも言える。「ないものねだり」は人間の常だが「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言うとおり、どちらかに極端なのはあまりよろしくない。何が幸せか?は人によって意見が異なるだろうがやはり何事もほどほどが良いと思った。Y.S.


  Lutchental.jpg

ルッチェンタールの家並み(2005年4月末撮影)

 

禁煙の流れ

今から13年前、つまり1995(平成7)年の9月にアメリカに行った。最初に訪れたジョージア州アトランタは翌年にオリンピックを控えて町は賑やかだった。またこの年にデビューした野茂英雄の活躍もあって私たち日本人は誇らしくあちこち歩いたのを思い出す。


この旅行で衝撃的だったのはアメリカでは公共の場が全て禁煙になっていることだった。成田から乗ったデルタ航空機も全席禁煙だったし、空港ビル内も喫煙室以外は全て禁煙だった。極めつけはレストランが全席禁煙だったことだ。喫煙席、禁煙席といった生ぬるい区分けではない。


どのレストランも入り口に「No smoking by law」(法律により禁煙)と記してあった。タバコを吸いたければ法の規制の及ばない場所、つまりレストランの外に出なければならなかった。当時の日本人の感覚ではとても考えられないことだった。私は28才の時に禁煙に成功し、非喫煙者になって久しかったので何も不自由しなかったが愛煙家の人たちはかなり参ったらしく「日本もこんな風にならなければいいが・・・」と言っていた。


「アメリカで起きたことは何年後かに日本でも起きる」今や一種の格言にもなっているこの言い方通り、その後日本でもすさまじい喫煙場所規制が起きているのはご存じの通りである。


分煙を義務付ける健康増進法なる法律もできた。あの時一緒にアメリカ旅行した愛煙家の方々が危惧した通りになった訳だ。既に学校や病院など公共の建物の中は完全禁煙になっている。レストランや居酒屋も全面禁煙になるのは時間の問題であろう。現状のような分煙ではなく全席禁煙となり、喫煙は野外でということになる。


これから愛煙家の居心地がますます悪くなることは必至だ。タバコその物も値上げの動きがある。もうそろそろ見切りを付けて非喫煙者になってはいかがだろうか?


こっち側には束縛から解放されたクリーンな世界が拡がっているのだが・・・Y.S.

井川本村

今年のゴールデンウィークは南アルプスの上河内岳と茶臼岳に登った。連日天気が良く、雪も適当に残っていて楽しい登山だった。山そのものも良かったが下山後立ち寄った井川本村も感動ものだった。


井川は大井川の最上流に位置する山村だ。今は静岡市の一部であるがその昔は安部郡井川村という自治単位であり、山の懐で自給自足の厳しい生活をしていた集落である。


これまで私は井川については県道沿いの家並みしか知らず、何となく通り過ぎてしまっていた。でも今回の登山パーティのリーダーW氏が「帰りに井川のワサビ漬けを買っていこう」と行って案内してくれた井川本村には驚いてしまった。


井川本村は大井川鉄道終点の井川駅の少し上流、県道60号線から分かれて井川湖に向かって降りて行ったところにある。1957(昭和32)年に完成した井川ダムの建設に際して湖底に沈むのを免れた集落だ。ここには狭い土地に多くの古い家がひしめき合って建っていた。道は狭く、普通の車でも切り返しをしないと通過できない曲がり角もあったほどだった。全ての景色がまるで昭和30年代にタイムスリップしたかのようだった。


W氏推薦のワサビ漬けは香り豊かでわざわざ寄って買っていく価値があった。しかしそれよりもその近くの金物店には圧倒された。小さな店の中には日用雑貨やら金物やらがぎっしり置いてあった。W氏は懐かしの虎マッチを6箱買い占めていた。私も使わないかも知れないがせっかくなのでハタキ(190円也)を買ってきた。

ホームセンターを見慣れた目で見ると本当に驚いてしまう。井川本村は魅力一杯の所だ。今度改めてじっくり行きたいと思った。Y.S.

正面衝突を免れた

それは、あわや死ぬのではないかと思ったできごとだった。


夜8時過ぎ、会社からの帰宅途中、雨上がりの田舎道だが通い慣れた道だ。信号機のある市道交差点で私の車は直進、時速60㎞程度で走っていた。
この交差点に私の車と対向車が同時に入ろうとしていた。その対抗車が突然右折を始めたのだ。交差点は直進車優先だから向こうの車は止まってこっちの通過を待たなくてはならない。それが何のためらいもなく、まるで私の車なぞ眼中にないがごとく右折を始めたのだ。


とんでもない奴だ!私は急ブレーキを踏んだ。10年に1回位のフルブレーキングだ。時間の進み方が急に遅くなった。相手の車はこっちに向かって来る。私はぶつかることを覚悟した。しかしぶつかったとしても何とかダメージを減らそうと結構冷静だった。


これがABSの威力なのか、制御不能状態に陥ることなく交差点の中で私の車は止まった。助手席に乗せてあったカバンや買い物品が全部前に放り出されていた。


対向車がどこをどう通って行ったのか分からない。私の車の前を間一髪通り抜けたのかそれとも私の車の後ろを右折して行ったのか思い出せなかった。
向こうの車も心配になったらしく、しばらく停まっていたが私が車内で怒鳴っているのを見て安心した(?)らしくそのまま走り去って行った。


暗くて向こうの運転者がどんな人間か見えなかったし、また何を考えて運転していたのかは元より分からない。しかし明らかに右折する意志を持ってステアリングを回したことは間違いない。


直進してくる私の車の速度が読めなかったとすれば運転技術が未熟だし、強引に右折して私に道を譲らせようと考えていたならば余りに身勝手だ。あるいは飲酒運転か?さもなくば私を道連れにした自殺願望者か?(こんな手合いと心中なんてまっぴらご免だ)


18才で運転免許を取って以来30数年、ほぼ毎日車を運転しているがこんなとんでもない運転者に遭遇したのは初めてだ。もう二度とこんな目に遭いたくないと思った。Y.S.